1.3Lエンジンをリアに搭載した「130」
19世紀末、ベンツ社は小型車のヴェロをつくり、量産メーカーとして世界のトップランナーの存在になっていた。しかしその後20世紀に入ると、メルセデスをつくるライバルのダイムラー社とともに、比較的大型で高価格のクルマをつくるメーカーとして発展した。
やがて1926年に両社は合併し、ダイムラー・ベンツ社となり、彼らの生み出す車両はメルセデス・ベンツとなる。このころ、巨大なアメリカのメーカーがヨーロッパに進出してきており、生き残りのために小規模だったドイツのメーカーも近代的な量産メーカーに転換する必要があった。
そんな状況で、ドイツの各メーカーは価格の安い小型車の開発にはげんだ。新生ダイムラー・ベンツが送り出すメルセデス車も、1931年にそれまでよりも小型のモデル「170」を投入した。ところがメルセデスはそれでは終わらず、さらに小さい革命的な「130」を1934年に発表した。
130は、1.3Lのエンジンをリアに搭載していた。近代的なRR(リアエンジン・リア駆動車)としては、タトラ 77と並んで世界初といってよい。ただし、タトラ 77は少量生産の大型車だった。当時、RRは小型軽量の次世代車に適した設計として注目されていた。それをダイムラー・ベンツはいち早く正規の量産車として、世に送り出したのだった。
ところが、この130には難点があった。リアが重いRR特有のオーバーステア傾向の操縦性に問題があったのだった。そのため、1936年で生産終了となってしまう。ただし、それにかわって同年にひとまわり大きな改良版の170Hを投入。リアヘビーの問題に対策を施し、やや高級化した車種として発売したのだった。
しかし、170Hも1939年で生産終了となる。価格が高いため、販売が不調に終わったのだった。そこでメルセデスは同じ1.7Lエンジンをフロントに積む170Vを同時に市場に投入し、これが記録的な成功を収めた。これによって、メルセデスのRR車の系譜は絶たれることになった。
メルセデスが野心的な小型車をあきらめた背景には、実はフォルクスワーゲンの存在があった。フォルクスワーゲンは、フェルディナント・ポルシェ博士が設計して、1934年から39年頃にかけて、国家が全面的に支援する計画として開発された。
このフォルクスワーゲンと130/170Hは非常によく似た設計である。ポルシェ博士は、元はダイムラー・ベンツの技術部長で、独立後の1930年に立ち上げたポルシェ事務所でフォルクスワーゲンを開発した。その設計はダイムラー・ベンツ時代に構想して、開発していたものを発展させたといわれている。もともとはベンツ社でリアエンジンが研究されており、ダイムラー社にいたポルシェ博士は、1926年にベンツ社と合併したことで、リアエンジンを間近に知り、魅了されたのだった。
しかもフォルクスワーゲン開発当初は、ポルシェにはまだ量産設備がなく、その試作車の製造にダイムラー・ベンツが協力していた。ポルシェ博士は、メルセデスRR車の失敗を横目で見ながら、RRの弱点を抑えたフォルクスワーゲンの開発に成功する。130/170Hとフォルクスワーゲンは異母兄弟のような関係で、フォルクスワーゲンのほうが弟にあたるのである。(文:武田 隆/写真:メルセデス・ベンツ)