2020年2月から7月にかけて133回連載して人気を博した「スーパーカー年代記」。その中から人気の高かった10モデルを夏休み特別企画としてプレイバックしよう。第4位は「童夢-零/P-2」だ。

童夢-零/P-2(1978-1979年)

画像: 性能面だけの追求で良かったレーシングカーと異なり、保安基準や耐久性、1000万円級を想定した品質感の確立などの難題に直面した童夢ー零。世評は大好評だったが市販は実現せず。(この写真以外は、すべて童夢 P-2)

性能面だけの追求で良かったレーシングカーと異なり、保安基準や耐久性、1000万円級を想定した品質感の確立などの難題に直面した童夢ー零。世評は大好評だったが市販は実現せず。(この写真以外は、すべて童夢 P-2)

スーパーカーは、イタリアを中心としたヨーロッパのメーカーだけのものと思われがちだが、日本でもスーパーカーを作ろうとする動きはあった。だが、20世紀においてはいずれも幻に終わってしまう。ここで紹介する童夢ー零/P-2も、そんなモデルのひとつだ。

日本のレーシングカー コンストラクターとして草分け的な存在の林みのるが、1978年のジュネーブ モーターショーで初公開したロードゴーイング スポーツが童夢-零(どうむ・ぜろ)だ。

林は、1960年代中盤に始めたレースカー開発をいったん休止。一転してスーパースポーツカーのジャンルに目を向け、世界で通用する車両の開発を意図して童夢-零を企画した。何か「世界一」となる要素が欲しい、誰もが驚くスタイリング上のインパクトが欲しい、という開発コンセプトから、980mmという世界一低い全高が選定されるいきさつを持つモデルだった。

実際の製作は1977年の年明け頃から始まり、開発スタッフには三村建治、小野昌朗、入交昭廣と、当時の日本を代表するレーシングカー デザイナーが顔を連ねていた。なお、童夢-零はあくまでも市販化を前提としたため、メンテナンス性や供給性を踏まえた上で、ミッドシップ搭載されるエンジンには日産のL28型 直6 SOHCが選ばれた。

画像: インパネも直線基調でまとめられ、ステアリングのデザインも独特だった。メーターは国産車初のデジタル式を採用していた。

インパネも直線基調でまとめられ、ステアリングのデザインも独特だった。メーターは国産車初のデジタル式を採用していた。

スチール製のモノコック シャシに鋭いウエッジシェイプのボディパネルはFRP製。リトラクタブル式ヘッドランプにシザーズドアと、いかにもスーパーカー然としたスタイルで、インテリアも直線を基調とした独特なデザインだった。

童夢-零のジュネーブ モーターショーでの反響は予想以上で、その場で20件以上もの予約オーダーがあったという。だが、日本では車両の型式認定を取得することがかなわず、アメリカなら認可が可能ではと判断し、アメリカの法規に合わせて改良を加えたモデル「童夢 P-2(タイトル写真のクルマ)」を製作した。

P-2は零よりもサイズが少し大きくなり、北米の衝突基準に合わせてバンパーは大型化され、取り付け位置も高くなっている。P-2は2台が製作され、市販に向けて走行テストも行われていた。

しかし資金難が続き、林もプロジェクトに積極的でなかったことから、童夢 P-2も市販化計画が頓挫する。それどころか、スポンサー企業から「レース仕様は、どうか?」と打診されたところから、ル・マン24時間を目指すレーシングプロトタイプ「童夢ー零 RL(レーシング ル・マンの略)」へ、そしてグループCのレーシングカー製作へと路線を転換していくことになる。

画像: 世界一全高が低いクルマを目指した童夢-零。写真のP-2は990mmとなったが、それでも室内は狭かった。テールランプはオリジナルだった。

世界一全高が低いクルマを目指した童夢-零。写真のP-2は990mmとなったが、それでも室内は狭かった。テールランプはオリジナルだった。

童夢ー零(カッコ内はP-2) 主要諸元

●全長×全幅×全高:3980×1770×980mm(4235×1775×990)
●ホイールベース:2400mm(2450)
●重量:920kg(950)
●エンジン種類:直6 SOHC
●排気量:2753cc
●最高出力:145ps/5200rpm
●最大トルク:23.0kgm/4000rpm
●駆動方式:縦置きミッドシップRWD
●トランスミッション:5速MT
●タイヤサイズ:前185/60HR13、後225/60HR14

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