英語が堪能で技術部と広報部の二足のわらじを履いた小早川さん
高校の担任のイチオシしで、マツダに入社することになった貴島さん。当初は別メーカーへの就職を希望していたのだが、今となっては結果オーライだ。一方、ロータリーエンジンの開発をしたいとマツダに入社したのは小早川氏。1963年にマツダに入社、幸運にもその年にできた新しい部署「RE研究部」に配属されたというから幸運の持ち主だ。
「小早川さんは、私が入社したときは技術者として活躍していただけでなく、英語が堪能だったので通訳的な仕事もされてました。今のように広報部が独立していたわけではなかったので、2つの仕事を兼任してました」
マツダ役員の海外出張に同行することも多かった小早川さんは、アメリカに赴任していた期間もあり、この連載企画で紹介したポール・フレール氏をはじめとして人脈はとても多かった。国際交流を得意としているためか、もてなし方も一流で社内の人間に対しても「やる気」にさせる手練手管に長けていたそうだ。
「小早川さんが1日十数万円もする、ジムラッセルのドライビングスクールに入校させてもらったことがあります。たしかラグナ・セカのコースを8人くらいで走りました。これも仕事のうちと、うまく取り計らってくれたんです。テストドライバーでもないのに、技術系の私にこんな機会を与えてもらったら、やる気にならないわけはないですよ(笑)。同じ会社の人間ながら、小早川さんからは教わることがたくさんありました。とくに国際的な視野で物事を見ることの重要さを学んだことは、忘れることができません」
仕事仲間をやる気にさせるキーパーソンだった
1986年に小早川さんがRX-7(FC3S)の担当主査になると、貴島さんはサスペンションの開発担当として接することが多くなった。
「当時、私も開発メンバーの一員で、3代目RX-7(FD3S)では0(ゼロ)作戦(軽量化のための戦術)が導入されました。これは、ライトウエイトスポーツに欠かせないものでした。パワーウェイトレシオ(重量出力比:1馬力の車重)5kgf(車重1250㎏÷5㎏=250馬力)を達成するのが目標でしたが、これは当時ポルシェしか達成していないハイレベルな数値でした。それを車両価格400万円以下のクルマで実現するのですから、かなりのチャレンジでした。この0作戦のタスクフォースチームのリーダーを任された経験は、ロードスターの開発現場でも大いに生かすことができました」
FD3Sの最終型となる5型、6型(スピリットR)では、主査として小早川さんから後を任された。実は小早川さんが貴島さんに引き継ぎたいと推してくれたそうだ。
「主査という仕事はクルマの開発だけでなく、車両価格の決定などを含めたすべてをビジネスとして見なくてはなりません。これまでの技術屋とは違った目線で、物事を見ることが必要なんです。主査というのは、自動車メーカーに入ったらやりたい仕事のひとつです。これに指名されたというのは、大変うれしいことでした」
小早川さんは一緒に仕事をしていても、説教で諭すようなことはせず相手をたてる。人がやる気になるように物事を進めていくので、いつの間にか皆のやる気スイッチをオンにさせていた。
「お礼の言葉をよく口にされて、ご自身に余裕があるというか、器の大きな人だと思います。ルマンの優勝時にも、『寄与してもらったおかげだ』と言ってくれました。とても穏やかそうに見えて、中に熱いものを持っているので「武士」を感じますね(笑)」
「小早川さんが道筋を作ってくれたおかげで、ロータリーやロードスターというマツダを代表するスポーツカーを担当することができました。これは本当に幸せなことですし、恵まれていると思います。またこの経験があったからこそ、大学で教鞭をとることにつながっている。彼と仕事することがなければ、この状況はないのですから、本当に感謝しています」