空冷水平対向2気筒エンジン&FRで軽やかに!
パブリカは昭和36(1961)年6月、トヨタ大衆車の切り札として登場した。38万9000円という低価格で話題をさらったことでも知られる。このクルマも通産省(当時)による国民車構想が発端となって開発されたと言われる。
トヨタは「パブリカが世に出るまでには、延べ6年にわたる試作研究期間があり、作られた試作車の数は約30台。テストのための総走行距離は100万kmに及んだ」と、市販車の完成度と耐久性に絶対の自信を見せた。
6年もかけたのは、「当初から昭和34年初期の第2次試作までFFで開発してきたが、コスト、サービス、耐久性などに解決できない問題が残る」としてコンセプトから見直しを図り、最終的にFRに設計変更したためという。実際のところはFFとして一応形にはなっていたが、課題が多く開発がストップしてしまったという背景があるようだ。
当時のスモーラーカー(軽より大きく小型より小さい500~800ccクラスの当時の呼称)は、小さな車体の中に最大の室内スペースを確保するため、エンジンとトランスアクスルを一体化できるRRが主流で、FF車はCVジョイント(等速継手)の性能や安定した供給体制に問題があり、一般的ではなかった時代だったのだ。
FRとして開発が進められてからも、ただ、妥協ではなくそのために最高の知恵と技術が投入されていた。まず、プロペラシャフトによる重量増を解消するため、トヨタ初の本格モノコックボディを新開発。さらにクランク&ミッションケースをはじめ車重の約5%をアルミ合金製としたほか、メーターフードやグローブボックスなど細かなパーツにプラスチックを多用するなどグラム単位の軽量化を図り、580kgの車両重量を達成している。