この連載では、昭和30年~55年(1955年〜1980年)までに発売され、名車と呼ばれるクルマたちを詳細に紹介しよう。その第26回目はスカイライン2000GT。スカイライン伝説はこのクルマから始まった。(現在販売中のMOOK「昭和の名車・完全版Volume.1」より)

昭和39(1964)年5月、スカG伝説が始まった

画像: S54Bのエンジン・G7型はグロリア用のパワーユニット。スムーズな直6SOHCのフィーリングは一級だ。ウェーバー 3連キャブは、当時の価格で1基20万円。デビュー時はオプション扱いだったが、昭和40(1965)年2月からGT-Bの標準となる。

S54Bのエンジン・G7型はグロリア用のパワーユニット。スムーズな直6SOHCのフィーリングは一級だ。ウェーバー 3連キャブは、当時の価格で1基20万円。デビュー時はオプション扱いだったが、昭和40(1965)年2月からGT-Bの標準となる。

かくしてプリンスは翌昭和39(1964)年の第2回グランプリにて汚名を晴らすべく、S50型を進化させた高性能セダンの開発に着手。そのとき製作されたのが、スカイラインGT(S54A-1)である。

GTはスカイライン1500(S50型)のバルクヘッドから前をホイールベースで200mm延ばし、2代目グロリアのスーパー6に積まれていた2LのG7型直列6気筒SOHCユニットを強引に押し込んだ。

スカイラインGTは、ベレットに続いて「GT」を名乗った国産高性能モデルで、ホモロゲーションを満たすため、100台が製作され、翌昭和39(1964)年3月に発表されている。標準仕様のG7型エンジンは圧縮比8.8で、シングルキャブを装着し、 最高出力105ps/5200rpm、 最 大トルク16.0kgm/3600rpmを発生した。

だが、レース仕様はオプション装備として用意したウエーバーのツインチョーク・キャブレターを3連装してパワーアップ。トランスミッションも3速+OD付きとした。また。コーナリング性能を高めるためにLSDを装着している。

そして迎えた第2回日本グランプリ。GT-IIレースに出場したスカイラインGTは式場壮吉のポルシェ904GTSを抑えてポールポジションを奪取。決勝では格上のポルシェの圧勝に終わったが、わずか1周ではあったが、ポルシェを追い抜いてトップを走り、優勝は逃したものの上位を独占する活躍を見せた。これが世間から評価され、同じスペックのGTを望む声が一気に高まっている。

さらなる高性能化により無敵の存在に

画像: 第2回日本グランプリGT-IIクラスで砂子義一が駆った39号車の復元車(2位入賞)。元祖スカイラインGTのS54A-1型である。

第2回日本グランプリGT-IIクラスで砂子義一が駆った39号車の復元車(2位入賞)。元祖スカイラインGTのS54A-1型である。

そこで昭和40(1965)年2月、正式にカタログモデルとして登場したのがS54B-2と呼ばれるスカイライン2000GTだ。スペックはレース仕様とほぼ同じ。ウエーバーの40DCOEキャブを3連装し、圧縮比を8.8から9.3に上げて、最高出力は125ps/5600rpmを発生。OD付き3速フルシンクロのギアボックスを備え、最高速は180km/hと、当時の日本最速を誇った。

シャシのレイアウトはS50型とほとんど同一だが、ブレーキは前輪がディスクとなっている。タイヤは高速走行を保証する5.60-13 6PRを履いていた。タコメーターも標準装備する。ノンスリップデフと呼ばれるLSDや5速ミッションはオプション設定だ。

その年の9月にはシングルキャブ仕様で青バッジを付けた2000GT-Aを仲間に加えた。これを機に2000GTは2000GT-Bと改名している。赤バッジのGT-Bはサーキットで敵なしの快進撃を続けた。 

画像: 昭和41(1966)年8月 の 日産との合併後に、車名が「ニッサン・プリンス・スカイライン」となったS54B-3型。「赤バッジ」が「GT-B」の証。

昭和41(1966)年8月 の 日産との合併後に、車名が「ニッサン・プリンス・スカイライン」となったS54B-3型。「赤バッジ」が「GT-B」の証。

そして、昭和41(1966)年10月には日産自動車との合併を受けて「ニッサン・プリンス・スカイライン」を名乗っている。これ以降の2000GT系がS54B (A)-3だ。

翌、昭和42(1967)年8月 に は1500デラックスが新世代のSOHCエンジン・G15型を搭載。型式を新たにS57D型とし、プリンス最後のスカイラインとして登場した。

This article is a sponsored article by
''.