貴重なエンジンを入手し、念願の自走が実現!
1960年代中後半、ダイハツがグループ6プロトタイプのレーシングカーを作り、日本グランプリを始めとするレース活動を、積極的に行っていたことをご存じだろうか?
当時のダイハツは、戦後のオート3輪事業から、小型乗用車のカテゴリーに足を踏み入れたばかりで、1000ccクラスのコンパーノ(ベルリーナ&スパイダー)が生産の柱だった。
一方、モータースポーツに対する取り組み方は、63年の第1回日本グランプリの開催を期に、各社が取り憑かれたように積極的な活動を展開する。
有力な車種を持たないダイハツは1歩出遅れる格好となったが、65年4月にコンパーノスパイダーを発売すると、同年7月の船橋CCCレースでワークス参戦を開始した。
この車両をベースに、66年5月の第3回日本グランプリにはプロトタイプのPー3を投入。参戦16台中の7位で完走。1300cc以下のGPーIクラスで優勝する健闘を見せた。
このPー3はコンパーノのFRラダーフレームに、プロトタイプのカウルを架装したモデルだったが、DOHCヘッドのR92A型(1261cc)エンジンを新開発して搭載した。
本格的に取り組む姿勢を見せ、翌年の第4回日本グランプリにはミッドシップのP-5を新たに企画。スペースフレーム構造の純レーシングカーで、排気量は1.3Lだったが、内容的には日産R380やポルシェ906と同じレベルの車両だった。
残念ながら車両の熟成度が低く、予選不通過と悔しい結果に終わったが、68年日本グランプリに向け、車体の熟成とエンジンの改良(R92B型、1298cc)を図り、戦闘力を見直した。いわばP-5改だが、富士スピードウェイの6kmコースで2分9秒台の俊足タイムを記録した。
決勝には、吉田隆郎、久木留博之、武智勇三、矢吹圭三の4台が参戦。吉田が出走25台中の10位で完走し、1300cc以下のGPーIクラスで2年越しの優勝を勝ち取った。
今回復元された車両は、この時のクラス優勝車、ゼッケン15の吉田車で、実に50年ぶりの勇姿の再現となったものだ。
実はこの15号車、10年前に一度大規模な復元作業を受けていた。かなりひどい状態で図面も残っていない状態から、カウルを新たに作り起こしていた。
その時の復元は、展示できる状態にすることが目的だったため、外観はきれいに復元されたが、エンジンはなく、他の補機類も走ることを想定していなかったことから、オリジナルとは異なる状態で処理されていた。
しかし、今回エンジンを入手したことで、完動状態で復元しようという計画になった。正確には、エンジン所有者の方が、ダイハツの申し出に快諾した結果、実現したものである。
復元を担当したのは社内の有志一同。業務時間外に技術系の有志が集まり作業を担当したという。
こうした活動は、日産の名車再生会がよく知られているが、ダイハツでも自分たちの文化遺産を残そうという動きがあったということだ。
譲渡されたエンジンは程度が良く、主要部品を交換したり新たに作り直す必要はなかったという。このエンジンはP-5の要となるユニットで、当時のダイハツが持てる技術を結集して作り上げたもの。
高回転域で予期せぬ個所が壊れ、その対策に苦労したという、当時の開発担当者の声も伝えられた。
シャシは鋼管スペースフレーム構造。当時のシャシ技術はヨーロッパの模倣以外に手立てはなく、質実剛健で理にかなったブラバムの構造などが、しばしば参考にされていた。
全長3850mm、全幅1550mm、車重510kgの仕様は、みるからに小型。1.3Lでグループ6プロトタイプを企画すると、このサイズになるのかと再認識させられる。
世界的にも例を見ない排気量のプロトタイプで、逆に言えば、このクラスの量産車で4輪車市場に臨むダイハツの強い主張が見てとれる。
さて、今回のお披露目の目玉は、なんと言っても自走できる点にあったが、何十年かぶりに響かせる1.3L DOHCのエンジン音は実に心地良かった。
現役当時は、オーバーオールウインが目標ではなく、あくまでクラス優勝が狙いだったが、半世紀の時が流れてみると、車両として貴重な存在だったことを考えさせられる記念式典だった。(文と写真:大内明彦)
ダイハツ P-5(レストア後) 主要諸元
●全長×全幅×全高:3850×1550×990mm
●ホイールベース:2250mm
●重量:510kg
●エンジン:水冷・直4DOHC
●排気量:1298cc
●最高出力:140ps/8000rpm
●最大トルク:13.0kgm/7000rpm
●トランスミッション:5速MT
●駆動方式:縦置きミッドシップRWD