ウルス、アヴァンタドールSVJ、ウラカンEVOの登場で注目を集めるランボルギーニ。1960年代、70年代のミウラ、カウンタックで日本でも広く知られることになるが、そもそもどんなブランドなのか。フェラーリと並ぶスーパーカーの雄はどのようにして誕生したのか。

ランボルギーニは反骨心に溢れた破天荒なクルマだった

ランボルギーニには、伝説となっている逸話が数多く存在する。「購入したフェラーリの性能や品質に満足できなかったフェッルッチォ・ランボルギーニが自らスーパーカーメーカーを立ち上げた」というのもそのひとつ。しかし、市販スーパーカーとしてその誕生はむしろフェラーリよりも早かったとも言われている。それはどういうことか。

スーパーカーの原点は、1947年にイタリアに突如現れたフェラーリにあると考えられている。フェラーリはレーシングカーを設計製作し、F1をはじめル・マンやミッレミリアなどに自ら参戦するとともに、レースに出場しようとするチームに車両を販売する会社としてスタートした。当時マセラティやアルファロメオなどがレース界に君臨しており、フェラーリはまだ新参者だった。

レースに勝つためには、常に新しいクルマを開発しなければならない。しかし、そうなると勝てなくなった古いクルマをどうするのかという問題が出てくる。フェラーリが画期的だったのは、それを公道も走れるクルマとして作り直して販売したことだった。

フェラーリはそれを「GTカー」として販売したが、快適性や実用性は低く、「スポーツカー」のような走る楽しさもなく、しかも高価だったが、その性能は抜群で、世界中のセレブをたちまち虜にしてしまった。

戦後、トラクターの販売で大成功を収めたフェッルッチォ・ランボルギーニもそうしたセレブのひとりだった。しかし、実際に乗ってみると乗り心地は悪く、故障も多く、とても満足できるものではなかった。「それなら自分でもっといいものを作ろう。スーパーカーはビジネスとして大きな可能性がある」と考えて設立したのが「アウトモビリ・フェッルッチォ・ランボルギーニ社」だった。

ちょうどその頃フェラーリも「公道を快適に走れるレーシングカー」を開発する計画をスタートしていた。もはやレーシングカーをデチューンして販売する手法(レースに参戦するためのホモロゲーションモデルを公道用に仕立てて販売もしていた)は限界に来ていた。この「公道を快適に走れるレーシングカーを開発するという考え方」こそがスーパーカーの原点だったと考えられている。もともとレーシングカーであった「スーパーカー」は、性能、価格、デザインなど、その存在すべてにおいて破天荒なクルマだった。  

こうして1963年に設立された「アウトモビリ・フェッルッチォ・ランボルギーニ社」は、当時内部紛争が起きていたフェラーリのエンジニアの呼び込みに成功し、驚くべきスピードで開発を進めることになる。そして早くも1963年10月に開催されたトリノショーに初めてのプロトタイプカー「350GTV」を発表する。これはフェラーリ初の公道用ベルリネッタとされる「275GTB」よりも1年近くも早かった。

1963年のトリノショーで衝撃的なデビューを飾ったプロトタイプカー「ランボルギーニ350GTV」は、独創的なデザインと飛び抜けた性能、上質なインテリアを持っていたが、60度V型12気筒総アルミ製DOHCエンジンは名車フェラーリ250GTOを開発した天才ジオット・ピッザリーニによるもので、デザインはフランコ・スカリオーネ、シャシの開発はカルロ・キティが担当。「350GTV」は元フェラーリのエンジニアが作り上げたものと言えた。ランボルギーニ社はその誕生から、「反骨精神」という言葉がふさわしいブランドだった。

画像: 1963年のトリノショーでデビューを飾ったプロトタイプ「ランボルギーニ350GTV」。

1963年のトリノショーでデビューを飾ったプロトタイプ「ランボルギーニ350GTV」。

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