東洋工業(現・マツダ)がNSU社とライセンス契約を交わし1961年から研究開発を始めたロータリーエンジン。1951年にフェリックス・ヴァンケル博士が発明したもので、「夢のエンジン」とまで言われたが、実際には未完成なものだった。当時の松田恒次社長に社運をかけたロータリーエンジンの開発を託されたのが、気鋭のエンジニア山本健一氏だった。この連載ではその開発過程から1991年のマツダ787Bによるル・マン24時間制覇までを、マツダOBの小早川隆治さんの話に基づいて辿ってみる。

アメリカの排出ガス規制対策の後、念願の北米輸出開始

画像: 1964年の第11回東京モーターショーで注目を集めるプロトタイプのコスモスポーツ。出展名は「MAZDA COSMO」だった。翌65年の東京モーターショーでも同名で出展され、それが最終生産型と発表された。

1964年の第11回東京モーターショーで注目を集めるプロトタイプのコスモスポーツ。出展名は「MAZDA COSMO」だった。翌65年の東京モーターショーでも同名で出展され、それが最終生産型と発表された。

コスモスポーツ導入後にアメリカで排気ガス規制が立ち上がり、対応技術(サーマルリアクター方式)の開発に成功、松田恒次社長の願いだったアメリカ市場への輸出を1970年から開始した。車種も増やして販売が急拡大した1973年後半に第1次オイルショックが発生、その直後にアメリカ環境庁が排気ガス測定用市街地モードで計測した燃費を公表、「ガソリンをがぶ飲みするエンジン」というレッテルを張られて販売が急減速、マツダの経営も危機を迎えた。

画像: 1967年9月に発売となったコスモスポーツ。RE研究部が心血を注いだ10A型ロータリーエンジンは、当時の国産車としては傑出したハイスペックとなった。

1967年9月に発売となったコスモスポーツ。RE研究部が心血を注いだ10A型ロータリーエンジンは、当時の国産車としては傑出したハイスペックとなった。

しかしロータリーエンジンを断念せず、燃費の大幅改善と、ロータリーエンジンならではのスポーツカー初代RX-7の開発を決断、アメリカ市場を中心に大好評で迎えられ、経営改善にも大きく貢献した。ロータリーエンジン車はその後2代目RX-7、ユーノスコスモ、3代目RX-7、RX-8と続き、累計生産台数はもう一歩で200万台となるものの現在は生産されていないが、第4回で触れたレンジエクステンダーなどの発電用の動力として、更には次世代スポーツカーの誕生などロータリー復活への期待は高い。

「山本さんが、もしロータリーエンジンの開発のリーダーではなかったらどのようになっていたか分かりませんが、松田社長に人を見抜く力があったのでしょうね。松田社長は山本さんに絶大な信頼を置かれていたし、山本さんご本人もそれを痛いほど感じていおられたと思います。山本さんがやられることに対して、松田社長が絶大な信頼を持って見守れたという関係であったと思います。」 

画像: ロータリーエンジンの初の量産市販に成功した東洋工業(=マツダ)。排出ガス規制や燃費の改善などの改良を地道に続けながら、2012年まで発売していたRX-8まで命脈を保つ。現在もロータリー復活待望の声は強い。

ロータリーエンジンの初の量産市販に成功した東洋工業(=マツダ)。排出ガス規制や燃費の改善などの改良を地道に続けながら、2012年まで発売していたRX-8まで命脈を保つ。現在もロータリー復活待望の声は強い。

松田社長はプレッシャーのかけかたも上手かったようだ。
「1963年に東京モーターショーの後、コスモスポーツの試作車で、東京から広島まで松田社長が、山本さんをつれてあちこち歴訪されています。最初は東京で当時の池田勇人首相や銀行のトップに会い、広島までの帰路にはマツダの販売店に立ち寄った。そのとき松田社長が、とにかくこの男(山本さん)を信頼して任せてやるから期待してくれと言って回られた。これは逃げられないと山本さんご自身が感じられたようです。ご本人がお書きになっているから間違いないでしょう」

こんな大きなプレッシャーのもとでロータリーエンジンの開発に成功したのだから、山本さんが意気揚々となっても無理はないことのように思える。しかし、小早川さんによるとそうではなかったと言う。

画像: マツダの経営危機が叫ばれる中、燃費の大幅改善を果たし1978年にデビューしたサバンナRX-7。アメリカを中心に大ヒットとなり、現在でも根強い人気を誇る名車だ。

マツダの経営危機が叫ばれる中、燃費の大幅改善を果たし1978年にデビューしたサバンナRX-7。アメリカを中心に大ヒットとなり、現在でも根強い人気を誇る名車だ。

「私が見聞きした範囲では、山本さんは、コスモスポーツが市販されたときも、やってやったぞというような感情を出すような人ではありませんでした。心の中ではそう思われっていたかもしれませんが、表にはだされなかった。それが、また山本さんが慕われる部分でもあったのかもしれません。みんな山本さんのためにやろうという面もあったのだと思います。

みんな山本さんが自分たちを信頼してくれているという思いがありました。だから、なんとしてもロータリーを成功させたいという気持にさせてくれるような上司だったと思います。いろいろな技術的な問題をぶつけたときにも、非常に真摯に対応していただけたという記憶があります。

山本健一さんは、トップダウンだけでなくRE研究部のひとりひとりを信頼していたという。そういう関係が築けたからこそロータリーエンジンは完成した。

強いパッションをもっていたにしても、それをガンガンと表にだしてくるタイプでなはい。要はチーム活動を非常に上手にされてきたリーダーでした」
ここまでが山本さんのロータリーエンジン開発の初期の物語となる。(続く)<取材・文/飯嶋洋治>

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