マツダ ロードスターの「伝説の開発主査」こと貴島孝雄氏が、現役時代に出会った記憶に残る人物を紹介する連載企画。今回は、貴島さんが心の師と仰ぐ自動車ジャーナリスト「ポール・フレール」氏。残念ながらポール氏は2008年に逝去されたが、彼から教わった数々のアドバイスは貴島さんの開発者人生に大きな影響を与えた。ポール氏と過ごした貴重な時間を振り返る。

まるで機械のような正確な動きをするポール氏のドライビングテクニック

画像: さまざまなプレッシャーのかかったNCロードスターの開発。主査だった貴島さんは、ポールさんの評価が大いに気になっていた。試乗後に見せた氏の笑顔は、何より心強い自信へとつながったことだろうか。

さまざまなプレッシャーのかかったNCロードスターの開発。主査だった貴島さんは、ポールさんの評価が大いに気になっていた。試乗後に見せた氏の笑顔は、何より心強い自信へとつながったことだろうか。

貴島さんが初めてポール・フレール氏(以下、ポールさん)に出会ったのは、RX-7(1978年登場/SA型)の開発時で、当時、RX-7の主査を務めていた小早川さん(現在はモータージャーナリスト)の紹介だった。ポールさんはホンダのコンサルティングをしていたこともあり、頻繁に来日していた。

ポールさんと仕事をする機会が増えていくにつれ、あるときポールさんが運転するクルマの助手席に初めて乗る機会を得た。彼がドライビングするクルマは、まるでコンピュータがコントロールしているかのような正確な動きに衝撃を受けたという。

さらにドイツの「ニュルブルクリンク」で同乗させてもらったときに、おもわずポール氏に話しかけたところ、「運転中は話しかけないで!」とポール氏に一喝されたという。「ドライビング中は全神経を集中していた」と貴島さんは話した。

当時のマツダでは実験部がテストドライブを担当し、その結果をデータ化していた。まれに開発側の思ったとおりの結果にならないと、開発の担当者自らハンドルを握りたがった。しかし、実験側もプライドがあり「何を言ってるんだ!」とお互いに熱くなることが多々あったという。

そんなこともあり、片山さん(片山義美=レーシングドライバー・故人)がインストラクターとなり、マツダ社内で「ドライバーランク制度」が定められた。ここで「Aランク」を取得するとサーキット走行が許可されるわけだ。

このように走行テストは実験部のテストドライバーだけで評価せず、開発側もハンドルを握ることでコンセプトが確実に反映されているかを見極めるように改革された。そして当時、著名な自動車ジャーナリストだったポール氏をアドバイザーに迎え、マツダのスポーツカーづくりは新たなステップを踏もうとしていた。

最初にポールさんにお願いしたことは、ヨーロッパ(ドイツ)で通用するクルマ開発についてだった。RX-7(1985年登場/FC型)のサスペンション開発の相談をしながら、アウトバーンを走行するために必要とされる性能や装備についてアドバイスを受けた。そして、当時すでに販売されていたRX-7(SA型)に試乗してもらったときに彼が発した言葉はいまでも忘れないという。

ピーキーで扱いにくいスポーツカーではドイツ車には遠く及ばない

画像: 貴島さんのマツダにおけるスポーツカーは、RX-7からスタートした。ロードスターは方向性の異なる性格だが、どちらにも確固たるスポーツスピリッツが流れている。

貴島さんのマツダにおけるスポーツカーは、RX-7からスタートした。ロードスターは方向性の異なる性格だが、どちらにも確固たるスポーツスピリッツが流れている。

ポールさんを広島の三次試験場に招き、RX-7(SA型)をドライブしてもらったときのことだ。試乗を終えたポールさんが放った最初の言葉は「テールハッピー」だった。「テールハッピー」とはいったいどういう意味なのかと尋ねると、「ドライビング中は、ずっと緊張を強いられるほどシビアなハンドリングで運転を楽しめない」ということだった。さらに長時間運転もできなし、センターホールがないという指摘も受けた。

ポールさん曰く「センターホール」というのは、走行中にステアリングから両手を離した際に、すっとステアリングがセンターに戻る現象のことをいう。たとえばステアリング操作をしてないのに勝手に動いたら、それはストレスになる。つまりステアリング操作をする時に思いどおりのきり方ができる手応えが重要。そして素早くきったら、さっと曲がるのがスポーツテイストなのだと語った。

ハンドリングは、アライメント、タイヤ、コーナリングフォースの出かた、ステアリングのフリクションなどが影響する。しかし、RX-7(SA型)はセンターホールがなく挙動がナーバスすぎると指摘したのだ。

予想していなかったまさかのダメ出しに、人間が乗るクルマにはどのような性能が必要かを貴島さんはあらためて思い知らされた。感覚とのバランス、楽しさ、軽快さの追求。これらはパワーを追求しないロードスターの開発で、もっとも重視すべきポイントだったのだ。

そして当時のドイツ車は、すでにこれらを極めていただけでなく、安全に対する意識も高かった。ピーキーで扱いにくいスポーツカーではドイツ車には遠く及ばないことを知り、ポールさんが語ったアドバイスを生かしながら、マツダのクルマづくりは底上げを図っていった。

NCロードスター開発時、ポールさんに送った手紙に隠された貴島さんの思い

画像: ポールさんはベルギー人ドライバーで、1948年のスパ24時間耐久でクラス4位を入賞。1960年のルマンでは見事優勝、以後、数々の耐久レースやF1(1952~56年)でも活躍。その後、モータージャーナリストへ転身した。

ポールさんはベルギー人ドライバーで、1948年のスパ24時間耐久でクラス4位を入賞。1960年のルマンでは見事優勝、以後、数々の耐久レースやF1(1952~56年)でも活躍。その後、モータージャーナリストへ転身した。

3代目、NCロードスターの開発時、マツダはフォードの傘下にあっただけでなく、リーマンショックも重なり本当に苦労したと貴島さんは語った。「人馬一体」という歴代のコンセプトを古くさいと見る向きもあったが、貴島さんはそれを貫いた。とはいえ、感情論だけではクルマは作れない。会社としてしっかり利益を出さなくてはならないからだ。

思い悩んだ貴島さんはポールさんに1通の手紙を出した。心の中ではポールさんに背中を押してもらいたかったのだ・・・。そして彼から届いた返事には「世界から支持されているコンセプトなのだから、私は賛同する」と書いてあった。

2005年3月、3代目NCロードスターはジュネーブモーターショーでヴェールを脱いだ。もちろんポールさんもその場に駆けつけてくれた。後日、来日したときに試乗してもらいゴーサインをもらったときは今でも忘れないという。 

生涯現役ドライバーだったポールさんは、クルマ好きの鑑といえる。好きなクルマを思うようにドライブできてこそ楽しめるのだ。その想いは今でもロードスターに・・・いや、マツダ車すべてに受け継がれている。

This article is a sponsored article by
''.