世界中の人達が新型コロナウイルスの感染拡大による未曾有の事態を経験することになった2020年に、マツダは100周年を迎えた。広島への原爆投下をはじめ、これまでの100年を振り返れば、この緊急事態もひとつの「歴史」として、今後長きに渡って語り継がれることだろう。そこでマツダの100年、社史編纂(へんさん=さまざまな材料を集めて整理し、書物を制作すること)を前編/後編に分けて紹介する。

自動車メーカーになる前は、オートバイを製造していた

2020年、マツダは100周年を迎えた。1920年に東洋コルク工業としてコルク製造からスタートし、機械工業へとシフトしていく。当時は2輪(オートバイ)を製造しており、広島で開催された招魂祭というレースで優勝するほどのポテンシャルを持っていた。そこから実用的な運搬用のオート3輪を開発したのち、自動車市場へ参入していったのだ。

創業から100年の間には、広島に原爆が投下されるという悲しい出来事も含まれている。なんとその日は創業者の松田重次郎氏の誕生日でもあったのだが、多くの従業員に加え、自身の次男を失うという悲劇に見舞われた。しかし、そんな状況下でも助け合いの精神を忘れなかった。

社屋を失った県庁舎やNHK広島放送局、中国新聞社など、移転を要望するすべての団体を、焼け残った東洋工業社屋で受け入れたのだ。決して広々としたスペースではなかったが、民官がともに働く場となっていた。こうしたつながりを広島で築いたからこそ、今も強固な関係が続いているのだ。

終戦から4年後に誕生した「広島カープ」は親会社が決まらず資金難を抱え、下位から抜け出すことができずにいた。そんなカープの力になろうと立ち上がったのが「東洋工業」、後のマツダだ。

そして球団の社長を引き受けたのは、重次郎氏の子息で当時の東洋工業社長だった恒次氏。決して余裕があったわけではなかったが、原爆の悲哀を晴らす場すら奪われた県民に、恩返しするために決断したのだ。残念ながら悲願の初優勝を見届けることはできなかったが、今も続くカープ熱に思わず納得だ。

とにかくマツダは個性的な会社である。そんなマツダが迎えた100周年の社史は、一般的な資料的なものではなく、アイデア満載の絶品だ。編纂作業に携わったマツダ広報本部の温品(ぬくしな)さんに話を伺った。

画像: 最新ロードスターとR360、時空を超えた出会い。

最新ロードスターとR360、時空を超えた出会い。

マツダが好きすぎて社史編纂に自ら名乗りでた

創業100年ともなれば、会社の社史が編纂されるのも当然だろう。1世紀分の材料ともなると、資料を集めるだけでも、途方もない作業になりそうだ。果たしていつぐらいから準備していたのだろうか?

「5年前の2016年に役員承認を得まして、同年9月にキックオフとなりました。当初は3人くらいで進めていたんですが、社内で公募をかけて8人体制でスタートしました。

私は90周年の際に、記念のウエブサイトをひとりで担当していたんです。そのときに、どんな情報がどの程度残っているのか実情を把握していました。情報のほとんどが紙で残されていたので、作業を進めるには効率が悪かった。そこで、広報のデータベースを強化しようと、古い写真をデジタル化する作業にとりかかりました」と温品さん。

窓も電話も話し相手もいない地下室(資料倉庫)に気づけば数時間こもっていた、なんてこともざらだったという。だが当時を振り返る顔は満面の笑み。

「もともとマツダが好きで入社していますから、いろいろ知りたくなり、さらに興味が湧いてきました。いろんなことを調べているうちに、もっと「マツダ好き」を増やしたいと思うようになりました。好きこそものの・・・、で趣味と仕事の境目がつかめない、困った面もあります(笑)」とほほ笑む。

温品さんがマツダに入社した1993年は、マツダが赤字に転落した年だった。山口県から通っていた温品さんは、広島に住む人は100%マツダが大好きで、マツダ車しか走っていないと思っていたそうだ(笑)。しかし、実際はそうではないことを知り、軽いショックを受けたという。

後編は、温品さんがいかにしてマツダのファンになったか、そして完成した社史の反響はどうだったかをお届けする。(後編は2021年5月29日公開)

画像: 創業者の松田重次郎氏の言葉。「自らを信じ、人を信じ、天を信じる」。これは何度挫折しても諦めることなく自分を信じて、挑戦し続ける。この熱きスピリッツは今も引き継がれている。

創業者の松田重次郎氏の言葉。「自らを信じ、人を信じ、天を信じる」。これは何度挫折しても諦めることなく自分を信じて、挑戦し続ける。この熱きスピリッツは今も引き継がれている。

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