アウトバーンでの高速走行性能の向上を視野に入れて開発
クワトロシステムが誕生して41年目を迎えた2021年秋、アウディは南フランスに歴代のクワトロシステム搭載車を集めて「クワトロ モーメントエクスペリエンス」と名付けた一大イベントを開催した。集合したのは正確にはチュリニ峠とサン・レモからサン・ロムーロに続くラリー・モンテカルロで知られる伝説のロケーションである。しかもこのセクションで自ら歴代のクワトロシステム搭載車のハンドルを握れるという絶好のチャンスも与えられていた。
さらには1984年にクワトロでWRCチャンピオンを獲得したスティグ・ブロンクビストのナビゲーターシートに収まって、ラリーのスペシャルステージの迫力を体験するプログラムまで用意されていた。
さて、アウディ クワトロには、個人的に深い思い入れがある。まず、1980年のジュネーブオートサロンで発表された最初のクワトロ、いわゆる「ウア(初代)・クワトロ(開発コード:タイプ85)」の試乗会に数少ない日本人のひとりとして参加できたことだ。それを可能にしてくれたのは、当時アウディジャパンの前身である連絡事務所の所長であったロバート・ヤンソン氏であった。
ジュネーブ郊外の峠道に雪が残る、4WD搭載車のテストとしては絶好のコンディションだったが、私は緊張のあまりハーフスロットルで危うくエンストしそうになったほどである。
鮮明に覚えているのは、素晴らしいトラクションだ。上り坂のコーナーを、経験したことのないスムーズさであっという間に通過したことである。その後、クワトロの開発に携わっていたエンジニアのひとりであるワルター・トレーザー氏と取材を通じて知り合った。生まれたばかりだった私の娘の名前がスバル(昴)だと言ったら、「もし今度、男の子が生まれたらピエヒさんから許可を取って名前は『クワトロ』にしよう!」と冗談を言ったのも覚えている。
ところで4WD乗用車といえば、初期は1960年代の英国におけるファガーソン・リサーチのシステムを採用したフルタイム4WDのジェンセンFF(1966年〜1971年)に始まり、スバルは1972年にレオーネ 4WD エステートバンの市販を始めている。
スバルの4WDはパートタイム式で、トラクションを必要とする時にだけトランスファーによって4WDに切り替えるシステムである。そうしないと、ミューの高い路面でコーナリング時に前後タイヤの回転差を逃がすことができず、タイトコーナーブレーキング現象が起こってエンジンストールしてしまう。これをアウディはセンターデフを設けることで解決したのだ。
そのアウディは、自社の4WDシステムを最初からオフロード専用ではなく、ドイツのアウトバーンでの高速ツーリングにも使用可能なスポーティな仕様にしようと考えていた。同時に、アウディはフロントにオーバーハングしたエンジンを搭載したFFだったので、パワーが上がるとスリップして駆動力に無駄が出る。そこでリアにも駆動力を伝えて、走破性とは別の利点を生み出せると考えたのだ。
そして独自の4WDシステムが持つ優位性とその可能性を世に知らせるためにWRC(世界ラリー選手権)に参戦、何度も優勝を重ねたことで「クワトロ」の名は世界中に広まったのである。
余談になるがこのクワトロシステムがいかに優れており、しかも扱いに特別なスキルを要求しないことを表すエピソードがある。1981年にクワトロで複数回の優勝を果たした女性ドライバーのミシェル・ムートンに対して、当時後輪駆動に乗っていたワルター・ロールが「クワトロに乗れば猿でも勝てる!」と冗談を言ったのだとか。これはクワトロの逸話として今も語り継がれている。
さらに「クワトロ」を世間に知らしめたのが、巧みな広告スポットだ。1986年にアウディ100CSをフィンランドの有名なカイポラ(Kaipola)シャンツェへ持ち込んで斜度80%のジャンプ台を登らせたシーン、あるいはエスキモーが雪原で子供に動物の足跡を教えている時にタイヤの跡を見て「これはクワトロだ!」と語ると「雪道でクワトロを追い越そうとするな!」というコピーが入る点はいまも記憶に残る。
こうした販促の成功もあってクワトロシリーズは1980年から現在までになんと1180万台が販売されたのである。