新型登場と会社存続の危機生産を止めずに命脈を保つ
「カウンタック」か「クンタッチ」か。ランボルギーニ本社での会話に耳を澄ませば「クゥンタッチ」の方がより正確で、「カウンタック」と日本の会話調に言って通じることはまずない。
けれども私たち日本人はもう半世紀近くも前から「カウンタック」で親しんでいる。そっちの方が、カウンターアタックみたいな名でカッコ良い。子供心に何か刺さる語感であったことだろう。スーパーカーブームは、カウンタックブームでもあった。
モダンランボルギーニのブランドイメージがどこから始まったのか。60周年を迎えた今、改めて言おう。「原点こそカウンタックであった」と。
人によっては350GTVやミウラこそ原点だと主張するかもしれない。もちろん、前車は会社としてのプロトタイプ1号車だったし、ミウラはロードカーとしての近代スーパーカーの元祖だから、それも間違ってはいない。
けれども現在、人々がランボルギーニに対して抱くイメージの元となる要素なり痕跡なりを、果たしてその2台から見つけることができるだろうか。現代のアヴェンタドールやウラカン、ウルスが、それらの子孫であると確信を持って思えるだろうか。
カウンタックを先祖として念頭におけば、アヴェンタドールやウラカン、ウルス、さらには新型モデル、レヴエルトもその子孫だと理解することは可能であろう。初代カウンタックが、現代のブランドイメージの礎になったことは間違いない。
では、なぜそうなったのか。そのことを語るためには、カウンタックの誕生物語から始めなくてはならない。
誰かが「クーンタッチ!(おったまげた)」と叫んだ
1960年代後半。ミウラを開発したジャンパオロ・ダラーラが社を去ると、彼の右腕として活躍していたパオロ・スタンツァーニが開発部門の陣頭指揮を取ることになった。折も折、創始者フェルッチョ・ランボルギーニの自動車ビジネスへの期待はにわかに萎みつつあった。
思ったほど儲からない割に(トラクターとは違って)あとあと面倒の続くビジネスであることを知ったからだ。けれども開発部門にはパオロを筆頭にフェルッチョの選りすぐったタレントたちがたくさん残っていた。ひとまずパオロに全責任を譲ってみよう、フェルッチョはそう決意する。
パオロはさっそく、ミウラの高性能化と共にその後継モデルとセカンドシリーズ(後のウラッコ)のプランに取り組んだ。パオロは盟友であるベルトーネのマルチェロ・ガンディーニとともに「ポスト ミウラ」計画に没頭した。
ミウラの弱点であり魅力でもあったV12エンジン横置きレイアウトを縦置きにして、なおかつミウラ以上にインパクトあるスタイリングを実現する。そうして生まれたのが独特な「前後逆さ」縦置きのLPレイアウトであり、そこから必然的に導かれた奇跡のスタイリングだった。誰かが「クーンタッチ!(おったまげた)」と叫んだ、カウンタックの誕生である。
しかしカウンタックのデビューした71年、自動車会社としてのランボルギーニはフェルッチョの手から離れてしまう。新型デビューと会社存続の危機とが、同時にやってきた。時はまさにオイルショックの時代。ここからが波乱万丈であった。
73年になって何とか市販モデルとしてのカウンタックの発表にこぎつけたが、その後はモデルチェンジを計画する経済的余裕などまるでなかった。多くの支援者や投資家たちの助けを得たものの、会社としては幾度となく倒産の危機や実際にその憂目にも遭った。
オーナーを次から次へと変えながら、カウンタックとウラッコ(シルエット、ジャルパ)を作り続けるほかなかったのだ。なかでもカウンタックは74年に生産をスタートしたLP400から88年の25thアニバーサリーまで15年にわたってフラッグシップであり続けた。スタイリングは年を追うごとに派手になり、パフォーマンスも上がって、80年代にはフェラーリテスタロッサのライバルとして再注目されたほどだ。
要するに、衝撃的なデビューを飾ったカウンタックを細々と作り続けたこの15年間が、ランボルギーニのブランドイメージを決定づけたわけだ。15年間でわずかに二千台。この宇宙船のようなスーパーカーによって、カウンタック=ランボルギーニと紐づけられるのには十分な数と時間であった。