モーターマガジンムック「ランサーエボリューションChronicle」が8月28日からモーターマガジン社より発売中だ。ハイパワー4WD車の代表として多くのファンから支持されてきたランサーエボリューション。その変遷を詳細に解説した内容が好評を博している。ここでは、同誌の内容の抜粋をお届けする。まずはその前段として、ランエボ登場以前の三菱のモータースポーツ活動について複数回に分けてお届けしよう。今回はランサー1600GSRの登場からランサーEX2000ターボの活躍までだ。

名車、ランサー1600GSRの活躍で、三菱自動車の存在感が高まる。

画像: 1973年に登場した初代ランサー。軽量コンパクトが魅力。サザンクロスラリーで1位から4位を占めた。

1973年に登場した初代ランサー。軽量コンパクトが魅力。サザンクロスラリーで1位から4位を占めた。

1973年に初代ランサーが登場する。 コンセプトとしては、コンパクトで軽量、さらに 高い信頼性が掲げられた。これはランサーエボリューションにも通じるコンセプトだ。モータースポーツという面でもっとも注目されたのは、スポーツモデルであるランサー1600GSRだ。通称「A73ランサー」。車両型式を含めた通称で呼ばれるほどマニアには人気があった。

滑らかな曲線で形成されたフォルムとその内部には、長年のモータースポーツ活動で蓄積されたノウハウが詰め込まれていた。ランサーは、カローラやサニーと同クラスのクルマであり、ひとまわり上のギャランは、次のモデルでは高性能スポーツ性を薄め、高級化を優先したクルマとなった。したがってスポーツ性はランサーに引き継がれた。これはメーカーとしてのラインアップ充実のために、三菱もトヨタや日産の後追いを始めたともいえる。

画像: サザンクロスラリーでの総合優勝をはじめ、三菱のラリー活動に大きく貢献したアンドリュー・コーワン(左)。

サザンクロスラリーでの総合優勝をはじめ、三菱のラリー活動に大きく貢献したアンドリュー・コーワン(左)。

ランサー1600GSRは、1973年のデビュー年に第8回サザンクロスラリーで1〜4位を独占した。総合優勝のドライバーはイギリス人のアンドリュー・コーワンだった。ギャランの高性能なエンジンと操作性を引き継いだ軽量コンパクトなランサーは、ラリーカーとしての戦闘力が非常に高いクルマとなっていたのだ。サザンクロスラリーは世界的な評価を得ていたラリーではあったが、自動車メーカーとしてはWRCに勝利してこそ、世界中にランサーの優秀さをアピールできる。三菱自動車は、WRCデビューを飾る檜舞台として、世界で最も過酷なラリーとして知られるサファリラリーを選んだ。当時はラリーの代名詞といえばサファリラリーだったのだ。1973年のサファリラリーには、テスト参戦ともいうべき体制でギャラン16LGSで出場、サファリラリーをどう戦うかのノウハウ獲得のためだった。

迎えた1974年のサファリラリーだが、ここでひとつ大きな壁があった。1970年代になると、排出ガス対策やオイルショックで他のメーカーはモータースポーツ活動を休止する。オイルショックは、ランサーをサファリに持っていこうとする寸前のことだった。三菱としてもそれまでのようにワークスチームとして挑戦するわけにはいかなくなった。ここでランサー使いとして有名になるケニア在住のインド人で、自ら自動車修理工場を経営してラリー出場を続けていたジョギンダ・シンから、「クルマは買うから部品だけ送ってくれないか」という提案があった。三菱自動車は、部品と組み立て要領を現地に送り、ジョギンダ・シンは2週間くらいでラリー車を組み立てた。

画像: ランサー1600GSRは、特にサファリラリーで好成績を収めた。写真はナイロビでのスタートシーン。

ランサー1600GSRは、特にサファリラリーで好成績を収めた。写真はナイロビでのスタートシーン。

そして、そのクルマがサファリラリーで優勝してしまったのだ。わずか1.6リッターのマシンが2.6リッターを誇るポルシェ911をはじめ、並みいる強豪車を寄せ付けずに勝利を飾ったのだ。当時のサファリラリーは全長6000㎞、5日間におよび、WRCの中でも最も規模の大きなラリーである。「カーブレイク・ラリー」とも呼ばれ、このラリーで成功を収めるためには、どんな悪条件下においても、スピード、耐久性が求められた。 つまり信頼性のあるマシンでなくては優勝することは不可能だったのだ。

三菱自動車はランサーでサファリラリーを制覇するという目標を、あっという間に達成してしまったようにも見えた。1976年、サファリラリーで優勝したジョギンダ・シンが再びランサーを駆って、サファリラリーに出場。その年は、ミッドシップレイアウトを採用しラリー界に衝撃を与えたランチア・ストラトスがライバルだった。ランサー1600GSRは、この年のサファリラリーでもラリースペシャルマシンであるランチア・ストラトスを抑え、1〜3位独占という、これ以上望むべくもない成果を上げた。

画像: 三菱自動車の顔となったラリードライバーの篠塚建次郎(左)。これは1977年サザンクロスラリーでのスナップ。

三菱自動車の顔となったラリードライバーの篠塚建次郎(左)。これは1977年サザンクロスラリーでのスナップ。

さらにランサーはサザンクロスラリーでも勝利し続けた。篠塚建次郎という才能豊かな日本人ラリーストも生み出した。1976年のサザンクロスラリーが篠塚にとっては国際ラリーのデビュー戦となった。そして、最初のWRCとなった第24回サファリラリーで、ハンヌ・ミッコラやシェッカー・メッタ、ジョギンダ・シンといった名だたるドライバーの中にあって、6位入賞を果たした。一方、チームメイトのアンドリュー・コーワンはすでに1973年以来、ランサーで3年連続優勝を飾り、サザンクロス・マスターと呼ばれるまでの存在になっていた。

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