解説:大内明彦
イメージリーダーカーを望むトヨタの依頼に、ヤマハが呼応
ヤマハがトヨタとのパートナーシップ、それも高性能自動車関連の開発に限り、関係を築き上げる発端となったプロジェクトが、トヨタ 2000GTの開発だった。
2輪で世界を制し、4輪市場への進出を意図したヤマハが、独自企画を日産に持ちかけたものの、実現しなかったことからトヨタへ持ち込み、そこで採用となったのが2000GTだった、というまことしやかな話は完全な誤りである。
日産と話がまとまらなかった理由は、企画の内容面より、ヤマハ・川上源一社長と日産・川又克二社長の間で方向性や価値観に大きな隔たりがあったためだという。お二方とも立志伝中の人物で、その分だけ個性も強く、意見の衝突があったとしても何らおかしくはなかった。
一方、当時のトヨタは、クラウン、コロナ、パブリカと基本の車種体系が出来上がり、企業全体を象徴するイメージリーダーカーを求める時期にあった。
結局、これが2000GT誕生の動機だが、トヨタには、既存の量産車種に手を加えたスカイラインGTのような暫定モデルではなく、名実とも独自性を持ち世界に通ずる高性能GTカー、ジャガー Eタイプやポルシェ911のようなモデルを持ちたいという、厳然とした強い意思があった。ヤマハが、トヨタに自社企画のスポーツカー案件を持ち込んだのは事実だが、すでに自社でも高性能GTカーの草案をまとめていたトヨタにとって、ヤマハの存在は大きな魅力だった。
2000GTの企画は、1964年後半から動きだしているが、すぐにヤマハは関わり、翌65年1月には依頼を受けて試作車の製作に取りかかっている。
試作、生産に関わる正式契約は9月頃のことで、最終決定権はトヨタにあるものの、開発工程については逐次トヨタの承認を得つつ、メカニズム開発のほとんどをヤマハが受け持った。
これほどヤマハへの依存度が高かったのは、当時、トヨタの開発部門が他の業務(KE10系カローラ?)で手一杯だったこと、複雑なボディフォルム、少数生産などの特殊性から、クラフトマンシップを持つヤマハが適任との判断によるものだ。
高性能車両の開発経験を持たぬ両社は、モーターレーシングへの実戦投入で、開発の質と時間を稼ぐ効果を得たが、ポルシェ906やプリンスR380との対戦で、量産車ベースの性能限界も痛感することとなった。
解説:大内明彦
みんなの知っているYAMAHAの仕事【コラム】
1963年、YG1Dのエンジンに2ストロークの革命と言われた「オートルーブ」機構を採用。それまでの2サイクルの混合給油を分離給油とし、オイル消費量、排気煙を減少させることに成功した。
文:飯嶋洋治