今でこそ、世界的に存在感を高めた自動車メーカーとして知られるスバル。しかし、その過去には軍用戦闘機や鉄道、バスなど、様々なビジネスを展開してきた経緯がある。スバルの前身である富士重工業、さらに中島飛行機にまでかのぼり、その製品たちを見ていこう。全3回で送る第1回は1917〜1945年の中島飛行機時代。(ホリデーオート2018年4月号より抜粋)

■文:遠藤一満/写真:SUBARU

中島飛行機時代(1917〜1945年)

自動車メーカーとしてのスバルの歴史は約60年だが、実はそれ以前の歴史がある。戦前、スバルは「中島飛行機」として東洋一と言われるほどの飛行機メーカーとして存在していた。1917年の創設だから、100年を超える歴史となる。時勢柄、「隼」や「疾風」などの戦闘機が注目されたが、民間機や郵便飛行機の開発、「誉」や「栄」といった星型エンジンの成功でも高い技術力を活かしている。その歴史の一端をのぞいてみよう。

東洋一の飛行機メーカー 中島飛行機から富士重工、そしてスバルへ…

今や、自動車メーカーとして北米を中心に高く評価されるスバルだが、その原点は1917年、海軍機関大尉を退役した中島知久平が創業した民営航空機会社「飛行機研究所(後の中島飛行機)」であることはよく知られている。

画像: 【中島知久平】中島飛行機の創業者で航空技術者。エンジンから機体までの一貫生産にこだわり、数々の名機を生み出した。

【中島知久平】中島飛行機の創業者で航空技術者。エンジンから機体までの一貫生産にこだわり、数々の名機を生み出した。

中島は1919年2月、試験飛行に成功した「四型6号機」で航空機メーカーとしての第一歩を踏み出す。この四型は同年開催の第一回懸賞郵便飛行競技に参加。優勝して高性能ぶりを世間に示すとともに、陸軍から20機の発注を受けるなど、その後の飛躍への確実な足掛かりとなった。

一方、第一次大戦で欧米の進んだ航空機技術を目の当たりにした中島は、弟・乙未平をフランスに送り、その技術をもとに1922年、ブレゲー14型をベースにした「中島式B-6型機」を完成させる。機体はジュラルミンを使った日本初の準金属製で、当時としては画期的なものだった。

軍用機の開発で飛躍。日本初のジェットも生む

1924年には念願のエンジン内製にも着手する。空冷の優位性に着目した中島は、英国ブリストル製の空冷星型9気筒のライセンス生産を足掛かりに独自開発を進め、「寿(陸軍名・ハ1)」が1930年末、海軍の制式発動機となり、90式艦上戦闘機などに搭載されていく。

その後、陸海軍が要求する高出力化に合わせて複列式で開発したのが、名機の誉れ高い「栄(陸軍名・ハ25)」や「誉(同・ハ45)」だ。

栄は1939年に軍への正式採用が決まり量産を開始。第2次大戦で陸軍の主力機種となる一式戦闘機「隼」や、海軍の主力機種となる零式艦上戦闘機「零戦」の原動機として名を馳せていく。ちなみに、零戦の基本設計は三菱重工業だが、その半数以上を中島飛行機が製造したことはあまり知られていない。

画像: 【一式戦闘機・隼】1941年、陸軍に制式採用された戦闘機。運動性能の高さは当時の最高水準で、陸軍最多の5751機が生産された。

【一式戦闘機・隼】1941年、陸軍に制式採用された戦闘機。運動性能の高さは当時の最高水準で、陸軍最多の5751機が生産された。

その他、九七式戦闘機や夜間戦闘機「月光」、九九式双発軽爆撃機など多くの傑作機を生み出した中島飛行機は、機動性と信頼性で高い評価を得ていく。

さらに1944年には、14気筒の栄を基に18気筒とした「誉」を積む四式戦闘機「疾風(はやて)」が陸軍に正式採用される。疾風は中島戦闘機史の最後にふさわしいと言われる万能型重戦闘機で、第二次大戦中の最優秀戦闘機と称された。

1945年には技術力の粋を集めた日本初のジェット機「橘花(きっか)」を製作。初飛行に成功するが、直後に終戦を迎えたため活躍の場を失った悲運の機となった。

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