黎明期にはレース活動に集中、その後はラリーに活路を見いだす。
ミツビシのレース活動は、64年の第2回日本グランプリが皮切りだった。この年、コルト1000が他車を圧倒したのだ。700〜1000ccのTIIIクラスで優勝した加藤爽平は、2位の日野コンテッサに10周のレースで1分以上の大差をつけて優勝。その後、ミツビシはフォーミュラカーのエンジン開発に進出、コルト1000のエンジンをベースに開発されたR28を搭載したコルトF3Aが、第3回日本グランプリで優勝するなどの活躍を見せる。71年には2リッター4バルブDOHCのR39B型を搭載したコルトF2000が永松邦臣の手によって日本グランプリを制した。
その後、ミツビシワークスがサーキットに姿を見せるのは、グループAの時代だ。85年のインターTECでスタリオンが登場。86年からは高橋国光/中谷明彦のコンビでレギュラー参戦、3シーズンで3勝を挙げた。90年からのN1耐久ではギャランVR-4やGTOを、N1耐久からスーパー耐久に変わる97年あたりからは、ランエボを走らせるなどの活動を行った。
世界のラリーフィールドでミツビシが活躍するのは、コルト系からギャラン系に世代交代をした70年代から。60年代後半からオーストラリアのサザンクロスラリーに参戦していたが、72年にギャラン16L GSが初優勝。翌年には、A73ランサーを投入。73年には同ラリーで1位から4位を独占する。74年にはサファリラリーに初参戦し優勝という華々しい活躍を見せる。
70年代後半でラリー活動を一旦停止してしまうが、81年にランサーEX2000ターボ、その後のグループBの時代にはホモロゲーション取得までは至らなかったが、スタリオン4WDの開発を行う。本格的に活躍を見せ始めるのがグループAの時代で、89年にギャランVR-4をデビューさせると、WRCで初優勝。93年にはコンパクトなランサーエボリューションを投入、T・マキネンの活躍などで、一世を風靡する存在となった。
もうひとつミツビシのモータースポーツ活動で忘れることができないのが、パリ〜ダカールラリーでの大活躍だ。パリダカ=パジェロというイメージともなった。初参戦は83年。市販車無改造T1クラスで総合11位、クラス優勝を果たす。翌84年からは市販車改造T2クラスにステップアップする。
この年はポルシェ911に破れ3位だったが、83年にプロトT3クラスで1、2位を席捲する。86年には篠塚建次郎が参戦を開始、87年に総合3位となることで日本国内でも注目される存在となった。92年、93年に連続総合優勝(ドライバーはユーベル・オリオール)、97年には篠塚が日本人初の総合優勝、その後、増岡浩が02年、03年と総合優勝を手にすることになる。
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