日産が世界に誇るスポーツセダンの嚆矢・スカイライン。そのホットバージョンとして1969年2月に登場したのが初代スカイラインGT-R(PGC10)だ。その栄光の軌跡は、レースシーンでの活躍によって今もなお、伝説として刻まれる。その軌跡を、1960年代〜1970年代初頭に日産ワークスドライバーのエースとして、日本初のスポーツプロトタイプカー・R380シリーズや初代ハコスカGT-Rを駆り、数々の名バトルを繰り広げた黒澤元治が語る。連載第3回(全6回)。(敬称略・新刊ムック「スカイラインGT-R Story&history Vol.1」より)
■インタビューと文:杉野勝秀(COOLARTS)■写真:日産自動車/モーターマガジン社
黒澤元治(Motoharu KUROSAWA)プロフィール
1940(昭和15)年茨城県出身。2輪ライダーとして、1962年に鈴鹿サーキットで初開催された、第1回全日本選手権ロードレースのノービス50ccクラスでホンダCR110を駆り優勝。その後、4輪に転向し日産・大森ワークス入り。1967年、日本グランプリGTレースにフェアレディSR311で優勝。1969年、日本グランプリに日産R382で優勝。1973年全日本F2000選手権チャンピオン(マーチ722 / BMW)。レース引退後、作家・五木寛之氏の勧めで自動車評論家に転身する。初代ホンダNSXやタイヤの開発ドライバーとしても活躍。
Episode.3 ハコスカGT-R、4ドアと2ドアHTの思い出
櫻井さんに「GT-Rの開発は、クロ、お前がやっていけ」って言われたんだけど、最初はあまり身が入らなかったな。その理由は、1969年JAFグランプリの規定で前座のツーリングカーレースはワークスのプロドライバーが出られないことになったから。だから言われるままに開発テストをやっていた。
最初のハコスカは、エンジンの低速トルクがなくて、上だけは結構パワー出ていたんだけど乗りにくかった。デビュー戦の1969年5月のJAFグランプリは、アマチュアドライバーがトヨタ1600GTに苦戦して判定勝ちという結果だったけど、プロの僕たちが乗れば楽に勝てたクルマだった。
JAFグランプリが終わって次のレースからは、もうワークスドライバーがやらなきゃいけないってことになり、すぐ僕らが乗ったんじゃなかったかな。秋の日本グランプリの時には、すでに相当作り込んでエンジンも機械式インジェクション仕様になっていた。
4ドアは割と乗りにくいクルマで、後ろが落ち着かなくて。剛性がなかったんだよ。剛性をもっと上げたいって言っていたんだけど、結局、重くなるからっていうので、櫻井さんたちも剛性強化には反対していた。軽量化しながら剛性を出すというのは、まだまだ出来ない時代だったんだよ。
ホイールベースが長いこと自体は悪くはないんだけども、ドライバビリティや安定性が悪いっていうのは、ホイールベースが長いからなおさらボディの曲げ剛性とねじれ剛性が出てなかったんだと思う。つまりバランスが悪かった。
1970(昭和45)年秋にKPGC10、ハードトップのレース仕様の試作車が出来た。センターピラーのない2ドアだからリアドアがない。必然的に剛性が出たわけだ。ホイールベースも70mm短くなってそれも剛性アップに寄与した。乗った時に「これは凄いな」って感じた。
富士スピードウェイでのシェイクダウンで、先輩の横山 達さんがヘアピンで転倒しちゃったんだけども、たまたまフロントガラスが割れずにポロっと取れたから、角材をどこからか持ってきて倒れ込んだAピラーをみんなで起こして修復。そのあとはガラスをガムテープでくっつけて。その状態で走って4ドアのベストを軽く破ったんだ。
僕の記憶だと、4ドアよりたぶん2秒くらい速かったんじゃないかな。あの頃は携帯電話もないから、担当のコッペイ(古平 勝さん)がドライバーズサロンの公衆電話で報告したら、櫻井さんが大喜びしちゃってさ。それも印象に残っているんだけどもね。(Ep.4に続く)