ゴルフ4登場の背景にはフェルディナント・ピエヒがいた
1997年に発表された4代目ゴルフは、今の目で見ればゴルフとしていかにもオーソドックスな存在にも思えるが、当時の3代目までのゴルフと比べて、まず高級化が目立ち、それと合わせて、デザインがかなり洗練されたものになった。さらにボディサイズも大型化し、当時のご意見番からは「本来、大衆車であるはずのフォルクスワーゲンのゴルフが贅沢なクルマになった」と批判されたりもした。
ゴルフ4が変わった背景には、その開発に先立つ1993年に、伝説的なエンジニアであり経営者のフェルディナント・ピエヒが、フォルクスワーゲン会長に就任したことがあった。周知のとおり、ピエヒはかのフォルクスワーゲン(ビートル)の生みの親フェルディナント・ポルシェ博士の孫であり、若くしてポルシェ社の技術部長として辣腕をふるい、ビートル後継車(要するにゴルフ)となるべきミッドシップのEA266の開発も指揮していた。
EA266が、その対案であったアウディ系の設計にとってかわられてボツになると、あろうことかその宿敵アウディに招かれ、今度はアウディで技術部長として5気筒エンジンを開発したり、4WDのクワトロを世に出すなどして、アウディ躍進の立役者となった。そしてアウディ社長を経て、グループ総帥のフォルクスワーゲン会長の座に収まったわけだった。
ピエヒが率いたアウディは、ブランドの高級化や高性能化、そして先進技術の採用を一貫して推進した。そのアウディでやっていたことをそのままフォルクスワーゲンでも実践し、その結果、生まれてきたのがゴルフ4なのであった。
1年早く登場した初代アウディA3とプラットフォームを共用しており、A3と同じ高品質がゴルフ4にも反映されていた。フォルクスワーゲンでは、上のブランドの品質を下位ブランドにも展開することで商品力を高める方針がとられていた。もちろんコストはかかっているが、フォルクスワーゲンの下となるセアトやシュコダにも兄弟車を設定することで、スケールメリットによる低コスト化も図っており、まさに強力なクルマづくりが実践された。
ピエヒの下でベントレーやブガッティなどの高級ブランドもグループ傘下に収め、フォルクスワーゲン自身にもメルセデスSクラスに対抗するフェートンという大型高級車を登場させる。こういった、ある意味覇権的ともいえるやり方を嫌う論調も当然あり、フェートンなどはドイツでは不評だったが、そのいっぽうで下のクラスに新たに経済車のルポを加えるなどして、全方位的にクルマづくりを充実させる。それが、ゴルフ4を生んだ当時のフォルクスワーゲンだった。