国際ラリーで独自性を打ち出す策を取った三菱自動車

コルト800のエンジン(2サイクル843cc)を4サイクル997ccに変更したコルト1000F。写真は4ドアデラックス。
三菱自動車のラリー活動といえばランサーエボリューションというイメージがついているが、それ以前からモータースポーツ、特にラリーには積極的に参加してきた。ここでちょっと歴史を振り返ってみよう。三菱自動車工業は軽自動車から大型トラック・バスまで自動車のすべてを製造する総合自動車メーカー(2003年にトラック・バス部門は三菱ふそうトラック・バスとして分離)であることが特色だった。ただ、乗用車メーカーとしては後発となり、独自性、つまり他のメーカーにない特色を出す必要があった。このあたりの経緯は、スバルと一緒だ。スバルは小型車部門への進出に際して水平対向エンジンでFF方式を採用することで独自性を出した。だが、三菱はトヨタや日産と同じ直4でFR方式を採用したので、独自性を出すのが難しい。
そのために選択したのがモータースポーツで活躍するクルマ、つまり高性能セダンを生み出すことだった。1960年代になると日本で自動車レースが盛んとなり、日本グランプリを頂点にして各メーカーが参戦した。三菱自動車は、レースだけでなく、ラリーにもメーカーチームとして積極的に取り組んだ。1960年代の日本のラリーはリライアビリティランといわれる、スポーツ性よりも指示された時間どおりに目的地に到着する正確さが求められるラリーが中心だった。これでは高性能をアピールするには物足りない。そこで、目を海外のスピードラリーに向けた。それがオーストラリアのサザ
ンクロスラリーだった。

1967年にサザンクロスラリーに出場したコルト1000Fは、総合4位に入賞した。ドライバーはC.ポンドとD.スチュワートという体制だった。
そのころの三菱は、1950年代にGHQの財閥解体により3分割された影響で、各製作所が独自に車両開発しており、全体のまとまりは薄かった。岡山県にある水島製作所で2サイクル800㏄エンジン搭載のコルト800F、京都府の京都製作所の4サイクルのコルト1000と、似たようなサイズの乗用車を別々に開発し販売していた。つまり自動車メーカーとして統一した意思を持つには至ってなかったのだ。そのような中で、1967年にコルト800をオーストラリアへ輸出するにあたり、現地から同車両を当時開催されたばかりのサザンクロスラリー(1966年初開催)に出場させたいとの要望があった。
三菱はそれに対応するため、コルト800の2サイクル3気筒エンジンを4サイクル4気筒エンジンに換装させた「コルト1000F」をサザンクロスラリーに出場させた。三菱の初代ラリーマシンとなったコルト1000Fは、1967年の第2回サザンクロスラリーで総合4位(クラス優勝)という成績を残した。決して高性能とはいえないクルマではあったが、初出場としては上々の成績といえるだろう。

1968年にはコルト1100Fでサザンクロスラリーに挑戦。フロントには三菱初のディスクブレーキを装備。このときは総合3位になった。
海外ラリーへの挑戦は翌1968年も継続され、第3回サザンクロスラリーに連続出場した。この時はコルト1100Fを投入し、当然ながら前年以上の成績を目指した。コルト1100Fはコルト1000のKE43型エンジンを1088ccにボアアップし58馬力に出力アップしたKE44型エンジンを搭載し、1966年に発売されたコルト1100をベースにフロントにディスクブレーキを装着してラリー用にチューンアップされたモデルだった。ディスクブレーキは、まだサーボ(マスターバック)無しであった。それでも、ブレーキパッドから火を噴くくらいにブレーキングをするトップラリードライバーの走りのすごさと、ブレーキ性能の高さを認識することになる。4台のコルト1100Fは、76台が出場した4000kmに及ぶ耐久ラリーで欧州車勢に伍して戦い、前年を上まわる総合3位を獲得し、1300cc以下のクラスではクラス1-2位を占めた。