この連載では、昭和30年~55年(1955年〜1980年)までに発売され、名車と呼ばれるクルマたちを詳細に紹介しよう。その第38回目は、マツダのロータリーエンジン史に燦然と輝くコスモスポーツの登場だ。(現在販売中のMOOK「昭和の名車・完全版Volume.1」より)

6年の歳月をかけて開発された初代REカー
スーパースポーツカーとして強い存在感を放つ

とくに「ロータリー・パワー」と呼ばれ、そのめざましい動力性能や低公害の魅力によって、評価が定着した感のあるロータリーエンジン(RE)。

画像: マツダの執念が実った10A型ロータリーエンジン。前期型の最高出力は110ps、後期型(昭和43年7月マイナーチェンジ)のエンジンは最高出力が128psとなった。

マツダの執念が実った10A型ロータリーエンジン。前期型の最高出力は110ps、後期型(昭和43年7月マイナーチェンジ)のエンジンは最高出力が128psとなった。

しかし、そのパテントを持っていたドイツのNSU社から東洋工業(現在のマツダ)がいち早く技術導入し、必死にその実用化に取り組んでいた昭和35年~ 45年(1960年代)は、REは「夢のエンジン」と称される一方、現実的にはまだまだ「海のものとも山のものともわからない」存在であった。ちなみにNSU社ではこれを開発したバンケル博士の名前から「バンケルエンジン」と称していた。

コスモスポーツはようやく実用化にこぎつけた「国産では初めてのRE搭載モデル」であった。またそれと同時に、なじみのうすいREをユーザーにアピールするためのデモンストレーションカーでもあった。

ここでコスモスポーツ全体の話の前にRE開発の話に触れておこう。NSU社がREの開発成功を発表したのは昭和34(1959)年12月のこと。さっそく東洋工業が技術導入の交渉に乗り出し、契約の仮調印を行ったのが昭和35年10月、正式調印が昭和36年2月だった。

画像: 車名のとおりそのスタイリングは宇宙(コスモ)を飛ぶ円盤のようだった。優れた空力特性で当時は超高速の最高速200km/hをマークした(後期型)。

車名のとおりそのスタイリングは宇宙(コスモ)を飛ぶ円盤のようだった。優れた空力特性で当時は超高速の最高速200km/hをマークした(後期型)。

REの国産化がスタートしたまではよかったが、当時のREはまだ技術的に問題が多く、そのまま実用化、市販化とはいかなかった。本家のNSU社でさえRE搭載の第1号車、NSUバンケル・スパイダーを発売したのは昭和39(1964)年11月のことである。

東洋工業では昭和36(1961)年11月には試作第1号エンジンを完成させたが、一定時間運転すると急激な性能低下をきたすなど、その製品化は難航した。いくつかの問題点はあったが、代表的なのがローターが中で回転するローターハウジングに波状摩耗(チャターマーク)ができてしまう問題で「悪魔の爪痕」と称されるほどだった。

これは、気密性を保つためにローターに装着されたアペックスシールとハウジングとの間の摩耗によるものだ。単に高回転でエンジンを稼働するだけなら問題にはならないが、実際の走行で回転数を変化させることによって発生する現象だった。

画像: ステアリングは当時のスポーツカーの定番であるウッドの3本スポークタイプ。インパネは6連メーターで真ん中の2つがタコメーターとスピードメーターとなる。

ステアリングは当時のスポーツカーの定番であるウッドの3本スポークタイプ。インパネは6連メーターで真ん中の2つがタコメーターとスピードメーターとなる。

昭和38(1963)年10月の第10回全日本自動車ショーには1ローターと2ローターのREの単体が出品されたが、性能低下の問題はまだ解決されておらず、とても完成品と呼べるものではなかった。

アペックスシールの素材がカギに。RE完成と同時にコスモスポーツ登場

REを搭載した2シーターのスポーツ・クーペ、コスモスポーツの「正式デビュー」は翌昭和39(1964)年9月の第11回東京モーターショーであった。

画像: 最 高 速185km/h、0→400m加速16.3秒のパフォーマンスを有していた。

最 高 速185km/h、0→400m加速16.3秒のパフォーマンスを有していた。

「正式」というのは、前年のショー会場に当時の東洋工業社長の松田恒次氏を乗せた2シーター・スポーツが姿を見せていたからである。これがプロトタイプのコスモで、したがってコスモスポーツのデビューは正確には「正式デビュー」の1年前、昭和38(1963)年10月ということもできる。

昭和40(1965)年、41年のショーにもコスモスポーツは出展されたが、市販までには至らず、その間もマツダ技術開発陣の実用化に向けての苦闘が続けられていた。先述のアペックスシールの素材が解決の切り札だったが、そのために「牛の骨から貴金属まで」と言われるほどさまざまな材質を試したという。

当時、RE開発の陣頭指揮に立っていた山本健一氏(のちのマツダ社長)は、「チャターマークはアペックスシールの固有振動数に起因するものではないか?」という発想からアペックスシールに縦と横に穴を開けるクロスホローという解決策を考え、一定の効果を得た。

それに加え画期的ともいうべきカーボン・アペックスシールの採用によって、ついに性能低下の問題を解決したのは昭和41(1966)年12月のことであった。これは日本カーボンとの協力によるところが大きい。

画像: フロントランプより後ろにラジエターがあり、そのだいぶ奥にコンパクトにロータリーエンジンが収まる。そこからドライバーズシートまでも余裕がある。

フロントランプより後ろにラジエターがあり、そのだいぶ奥にコンパクトにロータリーエンジンが収まる。そこからドライバーズシートまでも余裕がある。

こうしてREの試作をスタートさせてから実に6年あまり、昭和42年(1967年)5月からコスモスポーツの市販が開始されている。

外誌で「エキゾチック」と評された、低くテールの長い独特のスタイルのボディに搭載されたREは、491cc×2ロ ー タ ー の10A型 で、 最高 出 力 は110ps/7000rpm、 最 大トルクは13.3kgm/3500rpmを 発 生 し た。 最 高 速185km/h、0→400m加速は16.3秒だった。

サスペンションはフロントがダブルウイッシュボーン、リアはド・ディオンアクスル式とした。この方式はリジッド式ではあるが、デフがボディ側に固定されることからバネ下重量の低減につながる。ブレーキはフロントがディスクである。

発売から1年2カ月あまりの昭和43(1968)年7月、マイナーチェンジで10A型REは110psから128psに出力アップ、ホイールベースの延長やトランスミッションの4速から5速への変更などが行われた。これによって最高速は200km/hに、 0→400mも15.8秒を実現するまでになっていた。

画像: 正面から見ると、英国ロータス・ヨーロッパ風にも見える顔つきとなる。あちらはミッドシップなので、エンジン前置きでそう感じさせるのは、コンパクトなロータリーエンジンならではだろう。

正面から見ると、英国ロータス・ヨーロッパ風にも見える顔つきとなる。あちらはミッドシップなので、エンジン前置きでそう感じさせるのは、コンパクトなロータリーエンジンならではだろう。

昭和47(1972)年9月、カペラ、サバンナなどのRE搭載モデルに席を譲る形で、「REの先兵」であるコスモスポーツは生産を終了した。発売から5年あまり、生産累計台数は1176台であった。マツダの初期のREスポーツカーとして、その存在意義は大きい。

SHOW MODEL

画像: SHOW MODEL

コスモスポーツはモーターショーでは人気を集めていた。クラウンやセドリックの車両価格が100万円ほどの時代に、158万円(後期モデル)のスポーツカーは憧れの的。写真は昭和39(1964)年の東京モーターショー。堂々と展示されているが、まだ開発中だった。コスモスポーツは、累計1176台作られている。

MOTORSPORT

画像: MOTORSPORT

ロータリーエンジンを搭載した世界初の量産車となったコスモスポーツは、昭和43(1968)年8月、ニュルブルクリンクで開催されたマラソン・デ・ラ・ルート84時間耐久レースに出場。過酷なマラソンレースで、ポルシェ、ランチアに次ぐ4位に入賞、ロータリーエンジンの性能の高さをアピールした。

マツダ コスモスポーツ(L10A型)諸元

●全長×全幅×全高:4140×1595×1165)mm
●ホイールベース:2200mm
●車両重量:940kg
●エンジン型式・種類:10A型・2ローター
●排気量:491cc × 2
●最高出力:110ps/7000rpm
●最大トルク:13.3kgm/3500rpm
●トランスミッション:4速MT
●タイヤサイズ:6.45-14-4PR
●新車価格:148万円

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